最近のフード・ムーブメントの焦点は地産の食材やオーガニック食品を買うことだが、一方でアメリカのフード・アクティビストたちの間で今までと違った、より深い議論が起きている。それはすべての人に良質の食事をという要求だけでなく、あらゆる人々に食料が行き渡ることを阻止している社会の構造自体を解体しようとする試みだ

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPH BY NYDIA BLAS, SET DESIGN BY BETH PAKRADOONI, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 右派と左派の評論家たちはどちらもフード・ムーブメントをエリート主義だと批判した。一般的にヘルシーだとされている食品を手に入れるためにはある程度の特権と経済力を持つ必要があるため、「オーガニック」のラベルは単純に社会的ステータスと正しい行為のお墨付きになる危険を孕はらんでいる。一方、生活保護受給者たちは政府の援助金を使って「間違った」食品を買っていると常日頃、説教されている。ミシガンを拠点とする食料学者のS・マーゴット・フィンは2019年に発表された記事の中で、白人の裕福なアクティビストたちの多くが、コミュニティ・ガーデンや、都会での農業、野菜ボックスのサブスクリプション配達サービスや新鮮な素材へのアクセスを優先順位の高い課題だと認識していると指摘している。つまり、彼らは国民皆保険や最低賃金の値上げなどは優先順位の下位にあると考えており、「食の問題を考える際に、何が一番求められているのかを察知する倫理的想像力に欠けている」ことを物語っているのだとフィンは指摘する(もちろんこれらすべての問題に同時に取り組むことは可能だが)。

 ヘルシーな食物が単に特権階級のライフスタイルの一形態に過ぎないかもしれない一方で、アメリカのマイノリティ・コミュニティは何十年もの間、健康的な食品にアクセスする手段すら構造的に拒絶されてきた。確かな栄養源を確保することこそ、有色人種の人々が牽引する現在のアクティビズムの主要な目的だ。1969年にブラック・パンサー党がオークランドの公立学校で無料で朝食を配りはじめ、それが全米の学校に広がった。メニューはソーセージにベーコンか卵。それにトーストか南部の食事として親しまれているグリッツに、牛乳と、ジュースかホットチョコレート、そして新鮮なフルーツで、配給は週に最低2回だった。

ブラック・パンサーは食料の供給が十分でないことは抑圧だと考え、十分な栄養が取れないことは偶発的なことではなく、黒人に権力を与えないために仕組まれたシステムの一部だと認識していた。朝食の無料配布によって人種間の不均衡が解決されるわけでは決してなかったが、それはパンサーのサバイバル計画のひとつだった。パンサー党の創設者のひとりであるヒューイ・P・ニュートンは「革命を起こすまで生き延びなければならない」と訴え、「自分たちを踏みつけている抑圧者のブーツの下から立ち上がる」力を蓄えるときまで、黒人コミュニティを維持する計画のためだと1972年に書いている。

 米国連邦政府はパンサーの試みに似た独自の朝食無料配給プログラムを1966年に小規模で開始したが、それが全米規模までに拡大したのは1975年で、連邦捜査局がパンサー党の機能の大部分を解体し、党の福祉サービスが消滅してからのことだ。パンデミックの最中には、学校の食事無料配布は生徒たちの生命線となった。多くの街で公立学校が閉鎖された間も、学校のカフェテリアは平常どおりオープンした。調理担当者がやってきて朝食と昼食、そして時には夕食も作り、子どもだけでなく援助が必要な人すべてに配布した。連邦政府は、行政区の給食無償化をさらに拡大し、特定の学区では配布を受けるために必要な収入証明などの申請書類提出の義務を撤廃した。

当時の農務省長官のソニー・パーデューは「空腹な状態では、子どもたちは勉強に集中することはできない」と宣言した。その言葉は、50年以上前に、ブラック・パンサー発行の新聞にエディターたちが書いた次の言葉とほぼ同じだ。「私たちの子どものおなかがからっぽのときに、一体どうやって勉強できるというのか?」。その精神が多くのボランティア団体を動かし、昨年春に起きたブラック・ライブズ・マター(BLM)のデモにも多くの団体が食料を供給した。食料は栄養であると同時に「私たちはあなたたちとともにある」という宣言でもあったのだ。

 食料の供給が滞りがちなときに人々に食べさせるということは、抵抗の行為でもある。生きるための必需品が欠乏していると認め、周囲にもそれを知らしめることだからだ。1980年代にシカゴ南部で育った43歳のダラ・クーパーは現在アトランタに住み「全米ブラックフード&ジャスティス連合」(N.B.F.J.A.)のエグゼクティブ・ディレクターを務めている。彼女が子どもの頃、彼女の母親が必死に働いても食料を調達するのは難しかった。家族でスーパーに行くと生鮮食料品はいつも古くて色あせて傷がついており、街の裕福な白人が住む地域で売っている穫とれたての鮮やかな食材とはまったく違っていた。新鮮で健康的な食材に簡単にアクセスできない地域はかつて「食の砂漠」と呼ばれていた。その言葉を聞くと、食の不均衡は、まるで偶然に起きた自然現象のように感じられてしまう。

だが実際は、1930年代に政府によって設立された住宅所有者資金貸付会社(HOLC)が、ほとんどすべての有色人種が住む地域への資金融資を「危険すぎる」と拒絶し、またそれを許した合衆国政府の政策あっての必然的な結果だった。融資を拒絶する手法は1968年に制定された公正住宅取引法で正式に禁止されたが、経済格差は引き続き存在し続けた。アクティビストたちは今は「食の人種隔離政策」という言葉を使っている。この言葉は2008年に南ロサンゼルス・コミュニティ連合が、低所得者層の住宅地にファストフード店が増えすぎないように運動を展開したときに使用し、全国的に知名度を得たものだ。

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