アーティスト、ジュディ・シカゴの記念碑的な作品≪ディナー・パーティー≫が発表されて40年近くがすぎた今、カルチャーがやっと彼女に追いついてきた

BY SASHA WEISS, PORTRAIT BY COLLIER SCHORR, STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 1971年の夏には、カリフォルニア州立大学フラトン校の美術教授で、キュレーターでもあるデクストラ・フランケルや、画家であり、その作品がシカゴの作品の手本となったミリアム・シャピロらとともに西海岸を旅して、女性のアート展にふさわしい作品を探した。そこでシカゴたちが出会った多くのアーティストたちは、独学で美術を学び、寝室や玄関脇、または男友達やパートナーが所有するスタジオの物置きなどの、狭い場所で創作活動をしていた。シカゴは、彼女たちが洗濯や料理の合間にアートを作るのに驚き、子どものおもちゃや家族の骨董品と一緒に作品が飾られているのにも衝撃を受けた。そんな作品の中にも傑作はあった。たとえば、ある女性は、夫が捨てたキャンバスを再利用してその上に絵を描き、それは素晴らしい出来映えだった。だが、シカゴがそんな傑作を見いだすには、自らがもつスノッブさをかなぐり捨てる必要があった。芸術家であるということが何を意味するのかも、彼女の中で変質していった。スタジオにこもってひとりで大きな絵を描くのが芸術家だ、という認識を捨てて、もっと柔軟な発想で、より親密な活動をしてもいいのだ、と目覚めたのだった。

画像: ≪ミス・シカゴ&ザ・カリフォルニア・ガールズ≫(およそ1970〜’71年)のポスター。カリフォルニア州立大学フレズノ校のフェミニスト・アート・プログラムより JUDY CHICAGO, “MISS CHICAGO AND THE CALIFORNIA GIRLS,“ CIRCA 1970-1971,POSTER FROM THE FRESNO FEMINIST ART PROGRAM, FRESNO STATE COLLEGE, CA, PHOTO COURTESY OF THROUGH THE FLOWER ARCHIVES HOUSED AT THE PENN STATE UNIVERSITY ARCHIVES

≪ミス・シカゴ&ザ・カリフォルニア・ガールズ≫(およそ1970〜’71年)のポスター。カリフォルニア州立大学フレズノ校のフェミニスト・アート・プログラムより
JUDY CHICAGO, “MISS CHICAGO AND THE CALIFORNIA GIRLS,“ CIRCA 1970-1971,POSTER FROM THE FRESNO FEMINIST ART PROGRAM, FRESNO STATE COLLEGE, CA,
PHOTO COURTESY OF THROUGH THE FLOWER ARCHIVES
HOUSED AT THE PENN STATE UNIVERSITY ARCHIVES

 また、この時期、ニューヨークで彼女と同時代を生きていたフェミニスト・アーティストたちもいた。彫刻家のリンダ・ベングリスは、1974年のアートフォーラム誌上に掲載された広告で、ヌードになったことで有名だ。シカゴに触発された彼女は、バイブレーターをもってポーズをとった。また、ジュディス・バーンスタインは、巨大な男性器の絵画を描き、批評家やギャラリーに訪れる客を激怒させた。彼女たちは確信犯であえて人々を挑発して震撼させたのだ。彼女たちの目的は、男性を不快にさせることだった。シカゴは、フェミニズムを共同体の中で成熟させるにはどうしたらいいのか、という方向により興味を抱いていた。フェミニスト・アーティストたちの間に共通認識が欠けていたことに不満をもち、彼女はそれを自分の手で作り出す方法を模索し始めた。同時に、作品を小さな規模で作って拡大していく手法や、家庭的なものや個人的なものを組み合わせる手法なども、《ウーマンハウス(Womanhouse)》(1972年)と題された作品の基盤になった。この作品は、シカゴとシャピロが地元のアーティストやカル・アーツの学生たちと協力して作り上げた展示だ(この展示が開催された時期は、全米初の女性だけの共同ギャラリーで、バーンスタインもその会員だったニューヨークのA.I.R.の設立よりも約8カ月早かった)。

「女性たちは何世紀もの間、家の中で過ごし、キルトを縫い、裁縫をし、パンを焼き、料理をし、家を飾りつけ、巣作りすることでその創作意欲を発散させてきた」とシカゴは『花もつ女』の中で書いている。「私たちは想像した。もし女性たちがその同じ家事活動をファンタジーの形で表現したら、いったい何が起こるだろうと」。彼らが教えていた21人の学生とともに、シャピロとシカゴは、ハリウッドにあった廃屋同然の17部屋ある邸宅をリノベーションし、各部屋を彫刻空間に作り替えた。シカゴが手がけたのは《生理のあるバスルーム(Menstruation Bathroom)》だ。白く輝くタイルの空間に、血染めのタンポンがあふれそうなほど詰まったゴミ箱を置いた。リビングルームでは、女性たちが出産シーンを再現するパフォーマンスを行なったり、アイロンなどの日常の家事を淡々と行う光景が繰り広げられた。1 カ月間の展示期間に1万人の見学者が来場した。

 自身の作品を見て、理解してもらうため、シカゴは今までの基準とは違うルールを打ち出して、パワフルな女性たちの一員として自分を認識してもらう必要がある、と確信するに至った。1972年には《偉大なレディたち(Great Ladies)》と題した伝記的な肖像画シリーズの制作を始めた。マリー・アントワネット、エカテリーナ2世、ヴィクトリア女王など、歴史上の女王たちを描いた作品だ。作品は抽象画の形をとった。波打つような線が、固く結ばれた中心部から渦状に伸びて光り輝いている。微妙な濃淡をつけたピンクや黄色や青で彩色された絵画は、まるで息をしているように見えた。彼女はインタビューに答えてこう語っている。「形という言語と色彩を使って、歴史上の特定の女性の、具体的な個性を表現しようとした。

画像: 目玉焼きが乳房の形になり『ウーマンハウス』の部屋を漂う。作品名は≪滋養のあるキッチン(Nurturant Kitchen)≫(1972年)。シカゴの共同制作者、ヴィッキー・ホジェッツ、ロビン・ウェルシュ、そしてスーザン・フレイザーが制作 VICKI HODGETTS, ROBIN WELTSCH AND SUSAN FRAZIER, “THE NURTURANT KITCHEN“ WITH “EGGS TO BREASTS,” 1972, COURTESY OF MIRIAM SCHAPIRO ARCHIVES ON WOMEN ARTISTS, SPECIAL COLLECTIONS AND UNIVERSITY ARCHIVES; RUTGERS UNIVERSITY LIBRARIES

目玉焼きが乳房の形になり『ウーマンハウス』の部屋を漂う。作品名は≪滋養のあるキッチン(Nurturant Kitchen)≫(1972年)。シカゴの共同制作者、ヴィッキー・ホジェッツ、ロビン・ウェルシュ、そしてスーザン・フレイザーが制作
VICKI HODGETTS, ROBIN WELTSCH AND SUSAN FRAZIER, “THE NURTURANT KITCHEN“ WITH “EGGS TO BREASTS,” 1972,
COURTESY OF MIRIAM SCHAPIRO ARCHIVES ON WOMEN ARTISTS, SPECIAL COLLECTIONS AND UNIVERSITY ARCHIVES; RUTGERS UNIVERSITY LIBRARIES

 たとえば、開いたり閉じたり、せき止めたりという表現で、人間性をまるごと伝えたかった」。自分の意図をよりはっきりさせるために、彼女はやがて、絵画の上に文字を書くようになった。感じている恐怖や、自分の手法、日々の経験などを筆記体で書いた。それは几帳面で女の子っぽい味があり、見る者の心に訴えかけてきた。《偉大なレディたちの解放(The Liberation of the Great Ladies)》と題した1973年制作の絵画には「私は指をパンツの中に滑り込ませ、性器に突っ込んでそこにわずかに残っていた経血を掻き出した」という一文を書き込んだ。この文を書くことで、彼女は自己の中に閉じ込めていた自由の意識を解放したのだった。彼女はまた、陶器に装飾を施し、釉薬をかけ、絵づけする技術も学び始めた。その技術を《ディナー・パーティー》の表現に使うことで、より高度な芸術の世界に挑んだ。シカゴはとことん奇抜でオリジナルなものを作るために、今まで学んできたすべての知識を一度白紙に戻す必要に迫られた。

 シカゴとウッドマンは、1985年に3カ月つき合っただけで結婚し、その後23年間、ニューメキシコ州ベレンにあるレンガ造りの大きなビルで暮らし、仕事をしてきた。ベレンはアルバカーキーから35マイル(約56km)の距離にあり、彼らが住む通りは、まるでこの世の果てのような趣がある。州の中でも最大の鉄道路線の拠点のひとつが自宅から数ブロックのところにあり、古い列車が道路の向こうに停まっている。その近くには、焼けつくような太陽の下、空き屋になったビルが点在している。鉄道労働者のための宿舎として1907年に建てられた自宅を、彼らはザ・ベレン・ホテルと呼ぶ。建物はウッドマンが自らリノベーションを手がけ、室内は敷物や置物、さらに美術品であふれている。だが、シカゴのオフィスはシンプルでいっさい飾り気がなかった。背の高い本棚が整然と並び、額に入った賞状や学位が壁に掛けられていた。飾られていた友人たちの写真の中には、彼女のメンターのひとりだったアナイス・ニンの一枚もあった。ベストセラーであるニンの日記は、1966年に最初の一冊が出版され、シカゴは彼女から大きな影響を受けてきた。整然と片づけられたシカゴの空間は、直接的で個人的で露悪的な芸術作品を生み出すのに欠かせない厳しい規律に満ちている。

 ダイニングルームで、シカゴは《箱の中の回顧展(Retrospective in a Box)》と題したシリーズから、2012年発表の作品を指さした。写真の上にペイントを施したもので、赤い色彩を背景に、漂うように裸で立つシカゴを、こんな文字が取り囲む。「老いゆく女、アーティスト、ユダヤ系。本当の彼女の姿を、誰もが見るだろう」。シカゴは習得するのが難しい技術にも果敢に挑戦してきた。彼女にとってその努力は、アーティストとして選び取ってきた感情面のリスクと同じぐらい重要なものなのだ。キャンバスやガラスや陶器と向き合い、油絵やスプレーペイント、陶器彩色から刺しゅうまでこなしてきた。部屋いっぱいのサイズの巨大な彫刻作品を作る一方、女性性器をかたどった小さなクッキーを製作した。ドライアイスや火薬も使ったし、家や公園、大学構内や博物館でもパフォーマンスを行なった。共同作業を行うこともあれば、大がかりな作品を相手に、たったひとりで取り組むこともあった。≪ディナー・パーティー≫のあとにも、彼女は別の巨大な作品に取りかかり、完成までに何年も費やしてきた。誕生をテーマにした≪バース・プロジェクト(Birth Project)≫(1980~’85年)、ホロコーストをテーマにした≪ホロコースト・プロジェクト:闇から光へ(Holocaust Project: From Darkness Into Light)≫(1985~'93年)、そして暴力的な男性性を追求した≪パワープレイ(Power Play)≫(1982~'87年)。これらの作品の多くは、今になってやっと各地で展示され、研究される対象となった。

 

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