現代の孤独にまつわる複雑な考察を通じて、ヤン・ヘギュは紛れもなく、新しい芸術家像を世に示した。彼女は、どこにも居場所を持たないことで自分らしさを確立した、真にグローバルなアーティストだ

BY ZOË LESCAZE, PORTRAIT BY SHANE LAVALETTE, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA

 ヤンはあえて独身を通し、子どももいない。親しくつき合う友人も少ない。作風がどことなくヤンと通じる部分があるフランスの小説家のマルグリット・デュラスは、こんな言葉を遺している。「人は孤独を見いだすのではない。つくりだすのだ」。実際のところ、成功を収めた今の彼女が抱える最大の悩みは、ドイツでの学生時代に味わった疎外感と似たような状況を維持するのが難しくなってきたことだ。繰り返し自己を疑い、不安を抱き続ける――。それが彼女の作品に謎めいた魅力を与えている。だが、疑いと不安は各地をさすらうからこそ、生まれるのだ。「私にとって、孤独はその代償なのです」とヤンは言う。居場所について沈思黙考する作品を生み続けるために、ヤンは居心地のよさを感じることを、よしとしない。

 国境問題であれ、隣人同士のいざこざであれ、個人の内面の葛藤であれ、争いの起きている境界にヤンが関心を抱くのは、少女時代に経験したいくつかの別離が、ある部分で関係している。彼女は、朝鮮半島が分断されてから26年後の1971年に、ソウルで生まれた。政治的動乱のさなか、彼女の家族も、やがて引き裂かれてしまう。ヤンが3歳のとき、新聞記者だった父は政府の検閲に抗議したことで、160人の同僚とともに解雇された。その後も長いあいだ、父は仕事を見つけることができず、1980年代に入ってほかの多くの韓国人もそうしたように、家族を残したまま中東へ行き、建設現場で職を探した。それから数十年後の2015年、ヤンはシャルジャ・ビエンナーレ1(2アラブ首長国連邦で開催)に出展したインスタレーションで、父がいなかったことについて語っている。この作品で、ヤンはコンクリートブロック、送風機、スチール格子を使って、部屋がいくつもある迷宮のようなものを建て、ひとつの部屋には音を消したテレビを置き、韓国のテレビ映像を流し続けた。

 元教師の母は作家になり、その後活動家に転じ、女手ひとつでヤンと双子の弟たちを育てた。父は1988年に戻ってきたが、ほどなく両親は離婚した。それからまもなく、母は労働組合運動に参加するため、遠方へ引っ越した。ヤン自身は当時、政治的な活動は行っていなかったが、こうした経験は、彼女の作品に織り込まれるようになった。韓国の急激な工業化もまた、彼女の作品に内在する要素だ。ヤンは、生産活動と大量生産されたモノが伝統工芸と自然界に与える影響について、強く関心を抱いている。彼女の立体作品の中には、手織りの布、電球、竹の根、ハムスター用のトンネルなどが使われ、それらが車輪のついた金属製のハンガーラックに吊るされたものがある。決してひとつの場所に長逗留しないはずなのに、アーティチョーク・ハート(註:花托のおいしい部分)の缶詰、傘立て、冷蔵庫につけるマグネット、タオル、トマトペーストなど、本格的にその場に腰を落ち着ける人が買い揃えるような家庭用品が多く用いられるのが印象的だ。

 ヤンは物心ついた頃からアーティストを目指し、名門ソウル大学校に進んで芸術の学士号を取得した。そのまま大学院に残るつもりだったが、不合格になってしまったため、1994年にフランクフルトへ渡り、シュテーデルシューレ美術大学に通った。とてもつらい日々だったが、この試練はヤンという美術家をしっかりと育て、彼女のアウトサイダーというアイデンティティを生んだ。留学当初はドイツ語をほとんど話すことができず、ごく簡単な会話の中ですら、おのずと自分の無知――西洋の言語や習慣、しきたりに関して――を露呈させてしまった。言葉の不自由だけではなく、白人ばかりの社会でアジア人女性として生きる難しさを味わったことで、ヤンは気づいた。自己とは脆弱(ぜいじゃく)なものであり、居場所が変われば、その過程で壊れてしまうものなのかもしれない、と。

「私の人格、たとえば私の使うドイツ語は、あたかもヒビが入っているかのように、不完全なものとして特徴づけられているような気がする」。ヤンは、文字を使用した初期の作品《Science of Communication - A Study on How to Make Myself Understood(コミュニケーションの科学――どうしたら相手にわかってもらえるかについての考察)》(2000年)の中で、そう記している。屈折した胸中を打ち明ける文章を普通紙にタイプライターで綴り、ギャラリーの壁にテープで貼っただけのこの作品は、自己をさらけ出すことの実践だった。本人は生きづらさを味わっていただろうが、紛れもなくこの時期に、彼女の核となる部分が形成されたのである。思うようにコミュニケーションがとれないこと、その土地の人間だと思ってもらえないことを恥じる気持ちは、ヤンの作品作りにおいては今もプラスに働いている。「人は疎外感に突き動かされると、他人の気持ちに寄り添うために、特別な力を発揮できると思う」。ヤンはかつて、そう語っている。傷つきやすさは乗り越えるものではなく、共に生きるものであると、彼女は折に触れて力説してきた。

 ヤンは1998年、卒業制作で、金属の脚がついた大きなケースを使った作品を展示した。博物館で所蔵品や標本の展示に使われているようなタイプだ。そのケースの中に、自身の手の石膏模型や自分の名前を書き入れたIKEAのマグカップなど、それまでに作った自分の作品の中から選んで置いた。《Anthology of Haegue Archives(ヘギュのアーカイブ作品集)》と題されたこの作品を、皮肉だと受けとめた人もいたかもしれない。美術界からの支援を得るにはほど遠い、若くて無名のアーティストの、滑稽なまでの自尊心の表れだ、と。一方で、アジア人女性アーティストが世界のアートシーンで認められるという前例が実質的にまだなかった時代において、それはヤン自身の過去の言葉を借りるならば、「移民アーティストによる自己啓発の行為」であったと言えるかもしれない。

「当時は、(アジア人女性の美術家が、アートのメインストリームで評価されることは)まったくなかったのです」と彼女は言う。ロールモデルも、いないも同然だった。彼女にとっては、大衆の面前で料理をし、食事を振る舞うパフォーマンスを実践するタイ人アーティストのリクリット・ティラヴァニが、「東洋という枠でくくられない唯一の存在だった」と言う。つまり、彼は“アジア人アーティスト”である前に、純粋に“アーティスト”として見なされていた、という意味だ。

 しかしながら、ヤンがシュテーデルシューレ美術大学を卒業する1999年頃になると、アート業界の閉鎖性や排他性が弱まり、彼女の名前も徐々に知られるようになっていった。冷戦後、世界は急速につながり始めたので、ヤンはこの時代の流れの恩恵を受けたのだ。「世界のグローバル化が、あたかも表面的で一過性の流行であるかのように語られますが、私の軌跡を振り返ると、こうして文化が融合したことによるインパクトは、とても大きかったのです」とヤンは言う。「欧州が、まったく違う社会になったのです」。

 しかし、それが彼女という個人にどのような影響をもたらしたかについては明確にせず、永遠に抱き続ける疎外感を作品に語らせている。そして、こうしたテーマは、使い道がなくなったまま取り残され、周囲とそぐわなくなってしまったモノへの愛着として提示されることが多い。彼女の初期の作品に、フランクフルトの街角で拾った小さなテーブル、友人が粗末にしていた椅子、劇場から借りてきた長椅子で構成された、《Furnitury Objects-Students’Union Satie(家具のオブジェ――学生自治会のサティ)》(2000年)がある。そのテーブルの上に置いたチラシには、いかに人は身の回りのありふれたものを見すごしてしまうか、いかにモノは持ち主について語るかについての考えが述べられ、さらにアートスペースに家具を置くというアプローチや、エリック・サティの環境音楽についての考察も示されていた。

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