製造業が怒濤の勢いでもたらした莫大な資金、広大な土地、そして堅牢な産業によって、20世紀半ばのミシガンは、モダニズムが最も豊かに花開いた重要な拠点のひとつとなった。今日この街に残る建物は、アメリカのイノベーションにおける失われた歳月の証拠であり、現代デザインのいまだ語られざる一章なのだ

BY M. H. MILLER, PHOTOGRAPHS BY ANDREW MOORE, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

II.学校
 モダニストたちのデザインにミシガンが果たした役割を示すのに、クランブルックほど優れた実例はない。エリエル・サーリネンは1923年にヘルシンキからアメリカに移り住み、ミシガン大学で1年間教鞭を執った。彼が教えた学生たちの中にはブースの息子のヘンリーもいた。サーリネンはすぐにブースに抜擢され、ブースの美術学校をデザインし、その経営者にもなった。

画像: ほかの写真をみる クランブルックのキャンパスの内にあるサーリネンの家。1930年にクランブルック・アカデミーの初代学長だったエリエル・サーリネンによって建てられた

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クランブルックのキャンパスの内にあるサーリネンの家。1930年にクランブルック・アカデミーの初代学長だったエリエル・サーリネンによって建てられた

 サーリネンが1928年にデザインしたキャンパス内の彼の家は、当時、最も優れた建物のひとつだった。まったく新しい建築が、ミシガンの田舎にひっそりと存在したのだ。彼の家の内装は、あらゆる場所が、どの方向から見ても緻密に計算し尽くされ、サーリネンはそんな部屋のテイストに合うように、ジャック・ロンドンの小説『海の狼』のペーパーバックを革表紙で装丁させたほどだった。その家は彼のスタジオとなり、フォードの工場と同じように、アメリカのデザインの新しい方向性の概念が生まれる場所となった。

 サーリネンはブースの庇護を最も手厚く受けた人物だが、そのことが、彼の最大のライバルであり崇拝者でもあったフランク・ロイド・ライトを嫉妬で苦しめたのかもしれない(ライトはかつて「私がエリエル・サーリネンから学んだのは、いかに金銭的な採算を合わせるか、という点だけだ」と語った。しかしライトは、クランブルックを頻繁に訪れてもいたのだ)。私が最近サーリネンの家を訪ねた際に、クランブルックのコレクション・リサーチ部門のディレクター、グレゴリー・ウィトコップから聞いた話だが、ライトは少なくともサーリネンのクランブルックに少しでも対抗しようとして、ウィスコンシンの800エーカー(約3.2km²)の敷地にある自宅兼スタジオ、タリアセンでのフェローシップ・プログラムを開催したのではないか、ということだった。

 クランブルックのキャンパスの近くには、ライトが設計した家の中でも最高に保存状態のいい一軒が現存している。最近クランブルックに寄付されたメルビンとサラのスミス夫妻の家だ。ライトはウィスコンシンを活動拠点としていたが、自動車産業の富で潤い、郊外に拡大発展していたミシガンは、彼が描く核家族の概念にとっては理想の環境だった。ウィトコップいわく、スミス夫妻は最高のクライアントだったという。ふたりはデトロイトの公立学校の教師で、ライトのデザインに心酔していた。ライトが彼らのために設計した家を実際に建てるには、2万ドルの資金が必要だった。節約のために、メルビンは自ら建設の現場監督として働き、彼が雇った労働者には10年間にわたって分割で賃金を払う契約を結んだ。そして1950年にスミス夫妻は完成した家に入居した。メルビンが1984年に亡くなり、彼らの息子がカリフォルニアに引っ越すと、サラは荷造りをして家を出ていった。残された家はまったく手つかずで、そのままそっくり保存された。

 今日、その家は、スミス夫妻だけでなく、戦後のアメリカの姿を描いた素晴らしい肖像画のような存在だ。サンルームにはノーガハイド(人工皮革)のクラブチェアが置かれ、本棚には『The Sexually Responsive Woman』(『完全なる女性』〈註:クロンハウゼン夫妻著〉)と題された本があり、プラスチック製の植木や、クランブルックの学生たちのスタジオから直接購入したさまざまな品物(ポール・エヴァンズのキャビネットや数々の陶器など)で溢れていた。すべてのものが、家の中心である暖炉を取り巻くように存在していた。サーリネンはスミス邸が完成した、その同じ年に亡くなった。だが、その事実は、かつて何の変哲もなかったミシガン郊外の地を、アメリカの生活の将来を占う実験室にした当時の状況がいかに儚いものであったかを、まざまざと想起させてくれる。

 

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