製造業が怒濤の勢いでもたらした莫大な資金、広大な土地、そして堅牢な産業によって、20世紀半ばのミシガンは、モダニズムが最も豊かに花開いた重要な拠点のひとつとなった。今日この街に残る建物は、アメリカのイノベーションにおける失われた歳月の証拠であり、現代デザインのいまだ語られざる一章なのだ

BY M. H. MILLER, PHOTOGRAPHS BY ANDREW MOORE, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 しかしガイヤーいわく、ヤマサキはデトロイトの建築家仲間たちの間では受け入れられ、特にエリエルの息子のエーロ・サーリネンに歓迎された。エーロは父の会社で1936年から働き始め、すぐに大口の注文を受けるようになった。デトロイト郊外、ウォーレンのゼネラルモーターズ技術センターもそのひとつで、1956年にオープンすると、近代の企業キャンパスのひな形になった。同年にアーキテクチュアル・フォーラム誌が「工業界のベルサイユ宮殿」と称したように、約4000人の従業員を収容できるオフィスビル群が、22エーカー(約8万9000m²)の反射池の周囲に網の目のように配置されている。カーンが工業建築に取り入れたものを、ヤマサキはオフィスビル群に取り入れた。ヤマサキはデトロイト内外で素晴らしい建物をたくさん造ったが、どれも使用目的が派手ではなかったため、注目されないまま何十年も経過した。アメリカン・コンクリート協会、レイノルズ・メタルズ販売支部オフィスなど、冒険的なデザインの一連のオフィス群が郊外に建てられた。これらのビルには、ヤマサキ独特のガラス製のカーテンのような壁と、非常に複雑な格子模様が効果的に施され、遠目に見ると布地にあしらわれたパターン模様のようだった。クランブルックの近くには、1974年に建設されたベスエル寺院(註:ユダヤ教の寺院)があり、その白いコンクリートの構造は、大きなテントを再現したように見える。

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ブルームフィールドヒルズにあるヤマサキがかつて住んでいた家

画像: ほかの写真をみる ヤマサキ邸にある室内プール

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ヤマサキ邸にある室内プール

 ヤマサキはまた、デトロイトのダウンタウンに近い公立学校であるウェイン州立大学のキャンパスのほとんどの建物も設計した。こちらはクランブルックから距離的にはかなり遠いが、建物の美意識には共通するものがある。昨年冬のある朝、ヤマサキが設計したヘレン・L・デロイ講堂には授業を前に学生が集まりつつあった。学生たちが列をなして、この奇妙な灰色の煉瓦造りの建物に入ってくる。アーチ型の飾りは仏教寺院の茅葺き屋根の角度を思わせる。講堂を囲むように浅いプールがあるが、ここ最近は水が張られておらず、汚い落ち葉が詰まっている。修理やメンテナンスに費用がかかりすぎるためだ。プールの上には講堂の入り口に通じる歩道があり、まるで講堂が水に浮いているかのように設計されている。伝統的な日本式の建築と、不時着した宇宙船が融合したような感じだ。ヤマサキは1962年にニューヨークのワールド・トレード・センターの設計コンペに勝ち、その数カ月後にはタイム誌のカバーを飾った。建築家が同誌の表紙になったのは、彼のほかにエーロ・サーリネンとフランク・ロイド・ライトなど12人ほどしかいない。1972年、ヤマサキはクランブルックの近くに自宅の建設を終えた。荒野だったその地は、その頃にはもう開発の波にのみ込まれていたが。ヤマサキは建築家として、モダニズムのプロジェクトを同時代の誰よりも言葉どおり忠実に受け止めた。彼は自分の仕事を通して人々の生活をよりよいものにできると心から信じていた。彼が造った建物は「人類が人間性を信じる」ことへの記念碑なのだ。

 そしてまた、ヤマサキは、自分が手がけたふたつの建物が公衆の面前で破壊され、その跡にとてつもない廃虚が残り、それによって有名になるという数奇な巡り合わせで、ほかの建築家とは一線を画している。ワールド・トレード・センターと同様、連邦政府の財源が投入されたセントルイスのプルーイット・アイゴー住宅プロジェクトは1956年に完成した。このプロジェクトはもともと、低所得者用の住宅を想定しており、人種により住み分けられ(黒人はプルーイット地域、白人はアイゴー地域)、高層・低層の建物を取り混ぜ、緑のあるスペースをその間に組み込むという計画だった。だが、より人口密度の高い住宅を、という公共住宅局のゴリ押しで計画は大規模な見直しを迫られ、結局、33棟の高層住宅がそびえ立つ街という、ヤマサキの当初のビジョンとは似ても似つかないものになった。1960年代に入居者が減少すると、プルーイット・アイゴーは犯罪と破壊の温床となってしまう。州政府と連邦政府は、この集合住宅は再生不可能だとの合意に達し、1972年には建物を解体し始めた。ヤマサキは、モダニスト建築家のユートピア的な楽観主義が失敗に終わった象徴として、さらには、都市の再生がアメリカの都会を荒廃させた典型例として、記憶されることになった。

 

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