BY KEI WAKABAYASHI, PHOTOGRAPHS BY YUSUKE ABE
本はかつて本だった。本といえば、それは紙の束を片側でバインドした、そのハードウェアの形式であり、同時にその形式のなかに格納された情報体を指していた。中身とそれを格納する器は不可分のものだった。ところが、デジタルデバイスの登場によって、不可分だったはずのものを分離することが可能となった。中身は「コンテンツ」という名のものに置き替わり、紙の束は「フィジカルの本」と呼ばれる、選択可能な「オプション」となった。今「本」と言ったとき、それがいったい何を指しているのかは、実に曖昧だ。コンテンツとしての本の話なのか、ハードウェアとしての本の話なのか。そもそも「本」とはいったい何を指していたのか。そうした混乱のなか、いまだに延々と繰り返されてきたのが「紙の本のよさ」をどう擁護しうるのか、という議論だ。
「手ざわりが大事」「デザイン性が大事」「デバイスに依存しないので保存性がより高い」「透過光より反射光で読んだほうが頭に入る」など、「本のよさ」についての論拠は、さまざまな方面、角度から提出されてきた。どれもそのとおりだなとは思いつつ、いくらそうやって「紙のよさ」を説いたところで、少なくとも新聞や雑誌はデジタル空間に飲み込まれていくのは確実な趨勢(すうせい)なようで、それに歯止めをかけるには、悲しいかな無力にも見える。とはいえ、その一方でフィジカルのプロダクトには、それ自体が放つインパクトがあるのはたしかだ。フィジカル空間の中に投げ出された情報は、デジタル空間の中に投げ出された情報とはまったく異なる伝播性がある。
MITメディアラボ所長の伊藤穰一(じょういち)さんがフィジカルな単行本を出版された際に、いじわる半分で、「なんでフィジカルで本を出すんですか?」と聞いてみたことがある。「出してみてわかったんですが、フィジカルの本には、デジタルにはないイベント性があるんですよね」というのが、その答えだった。それは経験的にも身に覚えがある。デジタル空間の中に投入したものはいくらかの反響は生むにせよ、ただひたすら虚空に吸い込まれていくような感覚を覚えさせる。一方で、フィジカルなプロダクトは、その反響が空気を揺らしながら伝わってくるような気配がある。世界がちょっと揺らめく。気のせいだろ、と言われればそうかもしれない。数字で出せるような根拠があるわけでもない。けれども、フィジカルなものは、フィジカルな空間において、間違いなく、それぞれが特有の振る舞いをする。そして本は、それが単なるハードウェアではないこと、そのコンテンツと不可分の統一体であることによって、ほかのプロダクトとは違った、奇妙な振る舞いをするようにたしかに思える。
「本はパフォーマンスかもしれない」。そう言ったのは音楽家の坂本龍一さんだ。坂本さんに「本の話」をお伺いするという、この取材の中で、80年代に自身が主宰していた出版社について言及されたときのことだった。「本本堂という出版社をやっていたんです。はじめたのが1984年のことで、その年は、ナムジュン・パイクやヨーゼフ・ボイス、ローリー・アンダーソンなんかが日本にやってきて、いわば『メディアパフォーマンス』元年と言ってもいい年でした。そうしたなか自分も何かやりたいなと思ったときに、父親が編集者だったこともあって最もなじみの深いメディアとして本というものがありましたので、それを使って実験的なことができないかと考えたんです」
最初に出版されたものは、ピアニストの高橋悠治(ゆうじ)さんと坂本さんのふたりの対話を収めた『長電話』というタイトルの対談本だった。「これは、ぼくと高橋さんとでわざわざ泊まりがけで石垣島に行って、同じ旅館の別々の部屋から長電話するという企画だったんです(笑)。いわば遊びなんですが、それはそれで一種のパフォーマンスの記録ではあります。また、本を出版すること自体をパフォーマンスにするという趣旨でやりはじめたことなので、同じ仕様の本をページに何も印刷しないでつくってみたり、本の表紙を渋谷のパルコの壁一面に貼るというようなこともやったんです。小さなパフォーマンスですね。出版はメディアパフォーマンスだということをやりたかったんです」
さらに同時期に、朝日出版社から本本堂の「未刊行図書」を目録化した『未刊行図書目録』という本も出版している。それは実現不可能な本のアイデアを集めたものだった。「高松次郎さんとか、井上嗣也(つぐや)さんといった方々に、実現不可能でもよいので本のアイデアを出してくださいとお願いしてつくったものだったんです。なかでもいちばん好きだったアイデアはページに菌が塗ってあって、時間がたつにしたがって菌がどんどん増殖してカビだらけになるというものだったんです。あとは、たとえば中上健次さんの小説を毎日更新していくという本というものもありまして、これは当時はインターネットもありませんでしたので実現できなかったんですが、今から見れば、LINE小説の先駆的アイデアと言えなくもないですよね」
「紙の本はやがて別のデバイスに取って代わられていく」ということが言われはじめたのは、奇しくもメディアミックスというものが喧伝されるようになった80年代だったと坂本さんは回想する。そうしたなか古いメディアであった「本」というものを新しいメディアとして再定義しようという目論見が、これらのアイデアの背後には走っている。
「アクセスしやすくて、どこからでも読めて、どこに飛ぶこともできるといった本の面白さを、デジタルメディアが出てきたことによって、より明確に捉えることができるようになったんですね。だから本というものを『メディアパフォーマンス』の対象として扱うことができると思ったし、今でもそう思っています」
坂本さんの最新プロジェクトとして「坂本図書」というアイデアが今、実現を間近に控えている。それは、坂本さんの蔵書を保存し一部の会員に向けて共有すべく設立される「図書空間」には違いない。けれども、ここまでの話の流れから考えると、ただの「図書空間」としてではなく、一種のメディアパフォーマンスとして理解すべきもののように思えてくる。それは、本と、それが置かれた空間を、ひとつの新しいメディアとして体験するためのインスタレーションと言っていいものなのかもしれない。それ自体が「本」を使ったパフォーマティブな空間なのだ。そして、そうした「空間」への興味は、坂本さんの現在の音楽活動とも分かちがたく結びついている。
「音楽にとって空間が重要なファクターだと自分が気づいたのは、2007年に《LIFE-f ii...》というインスタレーションをやったのが大きかったんです。それは天井に9つのスクリーンと水槽、それに付随したスピーカーを吊り下げ、見上げて体験するものだったんですが、同じひとつの音であっても、それを9つの位置の異なるスピーカーから出すと、まったく違って聴こえますし、二次元として聴いていたものが、空間というファクターを入れることによって無限に楽しめるものになることに気づいたんです。10人のリスナーがいたら、10通りの聴き方ができます。また、9個のスピーカーだけでもその使い方の組み合わせは天文学的な数字になりますから、たったひとつの素材でも、こんなに面白いことができるのかって思ったんです。文字どおり二次元を三次元にすることで、やれることが驚くほど広がるんです」
本というものも、同じように空間の中で遊ばせてみることはできないだろうか。本を二次元から三次元に解放し、それをメディアパフォーマンスとして扱うこと。どうすればそれができるのかすぐにアイデアは出てこない。けれども、それはどんな擁護論よりも、「本」というものの可能性を指し示しているように思えてならないのだ。