アーティスト、ジュディ・シカゴの記念碑的な作品≪ディナー・パーティー≫が発表されて40年近くがすぎた今、カルチャーがやっと彼女に追いついてきた

BY SASHA WEISS, PORTRAIT BY COLLIER SCHORR, STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 照明を落とした広い部屋の中に、三角形に配置されたテーブルがある。その上には39の皿が置かれ、威厳漂う集会といった眺めだ。テーブルから数センチ上に持ち上がった皿は、宙に浮かんでいるようだ。それぞれの皿には、光り輝く中心部分から放出されるかのように伸びる、翼や花びら、揺れ動く炎の形などが煌びやかに描かれている。それは女性の外陰部をさまざまな形状で表現したものだ。

 三方がそれぞれ48フィート(約15メートル)あるテーブルを端から見ていくと、平面だった皿は、次第に丸く膨らんだキラキラ光る小さな彫刻へと変化していく。個々の皿の下には、細長いテーブルクロスが敷かれていて、それには凝った意匠が施され、人の名前が金色の糸で刺しゅうされている。描かれているのは、これまでに業績を残してきた女性たちの名前だ。よく知られている名前もあれば、そうでないものもあり、謎に包まれていて、ほとんど語られてこなかった名前もある。古代の詩人、サッフォー。17世紀の芸術家で思想家、神学者でもあったアンナ・マリア・ファン・シュルマン。米国初の女性医師、エリザベス・ブラックウェル。オブジェの集合体であるこの作品全体が、淡い光を放つ三角形のタイルが敷きつめられた床の上に置かれている。そしてそのタイルには、同じように金色の文字で、さらに999人の勇敢な女性たちの名前が、丸みのある文字で描かれている。この部屋はまるで寺院のようだ。日常とはまったく異質な聖なる場所のように感じられる。

画像: ≪ディナー・パーティー(The Dinner Party)≫(1979年) JUDY CHICAGO, “THE DINNER PARTY,” 1979, COLLECTION OF THE BROOKLYN MUSEUM, GIFT OF THE ELIZABETH A SACKLER FOUNDATION, © JUDY CHICAGO, PHOTO © DONALD WOODMAN

≪ディナー・パーティー(The Dinner Party)≫(1979年)
JUDY CHICAGO, “THE DINNER PARTY,” 1979, COLLECTION OF THE BROOKLYN MUSEUM, GIFT OF THE ELIZABETH A SACKLER FOUNDATION,
© JUDY CHICAGO, PHOTO © DONALD WOODMAN

 ジュディ・シカゴの≪ディナー・パーティー(The Dinner Party)≫が1979年3月14日にサンフランシスコ近代美術館で展示されたとき、それは、今まで誰も見たことがない斬新なものだった。劇場的な効果にあふれた、恐れを知らないフェミニズムの完結形だった。明確なシンボリズムと、細部にわたる深い叡智を含んだ作品であり、緻密なデザインの陶器と刺しゅうは、市井の人々の手によって伝統的に伝えられてきた様式に通じるものがあった。ひとりの女性の決して妥協を許さぬ壮大なビジョンを形にする、共同体的なプロジェクトであり、見る者に畏れと自己存在の源を想起させた。発表されるや否や、大反響を呼び起こした。だが、それはその後に続く、波瀾万丈のほんの幕開けでしかなかったのだ。

 12月のある寒い日、私は御年78歳のジュディ・シカゴにブルックリン美術館で会った。ここで今、≪ディナー・パーティー≫が常設展として展示されているのだ。≪ディナー・パーティー≫に代表される彼女のスタイルは、挑発的でカラフルで、既存の枠に収まるようなものではない。彼女はジーンズをはき、豹柄のシルクのシャツを着て、その上に、スパンコールと2連の金のビーズが縫い込まれた、黒いベストを羽織っていた。彼女の口紅は紫色で、カールした髪の毛は赤っぽいピンクに染められていた。その格好に似合うサングラスをかけた彼女の姿は、幻想的で、サイケデリックだ。だが、サングラスの後ろからのぞいている彼女の瞳は、鋭く威圧的ですらある。シカゴの夫で、常に行動をともにする相棒である、写真家のドナルド・ウッドマンはこの日、やさしいボディガード役を務めていた。

画像: ジュディ・シカゴ、ニューヨークの街で。2017年12月に撮影 PORTRAIT BY COLLIER SCHORR

ジュディ・シカゴ、ニューヨークの街で。2017年12月に撮影
PORTRAIT BY COLLIER SCHORR

 私たちは3人で一緒に≪ディナー・パーティー≫の展示室に入った。シカゴは彼女の作品を、親が成長した子どもを見守るように愛情を込めて見ていた。その愛情には、激しい情熱とやや困惑したような思いの両方が込められていた。この作品は、今では完全に美術史の一部となってしまっているため、作品の威厳はまるで元から備わっていたかのように感じられるが、シカゴは今でも、その威厳が失われないよう守り抜こうとしている。彼女は、この作品を生み出すのが、いかに難しかったかを鮮烈に覚えている。何年も骨身を削って働き、作品作りを手伝う400人のボランティアを5年以上にわたってまとめてきた。本当に完成する日がくるのかどうか疑いながらも、その疑問を乗り越えて発表にこぎつけた栄光。自己批判と完璧主義的な真剣さを併せ持つ彼女は、私にこう語った。彼女の作品の意図は、西洋文明の歴史を、その場から除外されていた女性たちに再び捧げ直すことだったのだと。彼女は、決して誰かに消去されてしまうことがないぐらい巨大な作品を作りたかったのだ。この作品を目の前にして、今何を感じているのかを彼女に聞くと、彼女の声に悲しみの響きが加わった。ほっとした、と彼女は言った。
「最初から、私は心に決めていた。この作品は常設で展示されなければダメだと。もしそうでなければ、この作品が表現している消滅の物語を、単に繰り返すだけになってしまっただろうから。ただ、こんなに長い時間がかかるとは思ってもいなかったけれど」

 サンフランシスコで≪ディナー・パーティー≫が最初に展示されたとき、3カ月間の展示期間中に、10万人以上の人々が訪れた。シカゴは全国的に有名な雑誌に取り上げられ、ラジオの取材も受けた。全米の女性たちから、彼女たちがいかに感動し、この作品がどんなふうに人生を変えたかを綴った手紙を受け取った。しかし、強い反発も湧き起こった。同業者たちは、これは芸術作品ではなく、不格好な政治的誇張表現にすぎないとささやいた。ロサンゼルス・タイムズ紙の美術批評家は、彼女の作品を完膚なきまでに批判し「低俗さと安っぽさをぐちゃぐちゃにして混ぜ合わせたような無意味なもの」と評した。全米の美術館を回るはずだった展示ツアーは、ほとんど説明もなくキャンセルされてしまった。

 シカゴはショックを受けていた。美術界から拒絶されるということは、彼女自身のアイデンティティを否定されたのと同じだった。5歳から美術を勉強してきた彼女は、1960年代のロサンゼルスのアートシーンで、その存在を認識されていたひと握りの女性たちのひとりだったのだ。彼女にとって≪ディナー・パーティー≫は、過激な自己変革の過程の中で、頂点を極めた作品だった。作品を完成させるために3万ドルの借金を抱えた彼女は、サンフランシスコ郊外の小さな町にある質素なスタジオに引きこもり、その夏じゅうひとりで過ごした。≪ディナー・パーティー≫は解体され、箱に詰め込まれて倉庫に保管された。

 

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