BY SASHA WEISS, PORTRAIT BY COLLIER SCHORR, STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
その後何年も、≪ディナー・パーティー≫を巡る大衆からの圧倒的な称賛と、批評家たちの拒絶の間にできた溝は深まるばかりだった。この作品は、その後20年間、アメリカ美術界からほぼ無視されてきた(例外はブルックリン美術館で、同館はこの作品を1980年に展示した。その結果、ニューヨーク・タイムズ紙上でヒルトン・クラマーが、作品の女性器のイメージをあからさまに見下した酷評レビューを書いた)。だが、《ディナー・パーティー》のプロジェクト・コーディネーターだったダイアン・ゲロンのたゆまぬ努力のおかげで、美術館以外の全米のさまざまな場所で、展示が続けられた。シカゴにあるオフィスビルの最上階や、ボストンのサイクロラマ・ビルなども展示場になった。
ロックフェラー一族のような篤志家から、作品の斬新さに感動してシカゴあてに5ドルの寄付を送ってくれた女性たちまで、多くの支援者に支えられてきた。こうして、ゆっくりと≪ディナー・パーティー≫は美術史に再びその名を刻み込んだ。2002年にブルックリン美術館がこの作品を買い上げて再び展示したとき、ニューヨーク・タイムズ紙の美術批評家ロベルタ・スミスは、作品が受けてきた厳しい評価を端的に要約してこう書いた。「この作品を、あなたが呼びたいように何とでも呼ぶがいい。悪趣味、ポルノ、人工物、フェミニストの誇大宣伝、または20世紀美術における主要な作品と」。さらにこう続けた。「どう呼ぼうと大差はない。≪ディナー・パーティー≫は重要な作品なのだ」
数年前、私が最初に≪ディナー・パーティー≫を見たとき、深い尊敬の念と同時に、何とも言えない直感のようなものを抱いた。どういうわけか、二つの相反する感覚が伝わってきた。つまり、これが重要であるという感覚と、悪趣味であるという感覚だ。ひとりの人間の頭脳が考え出した「作り物」である、という立ち位置は、作品のシンボリズムに乗っ取られてしまっていた。今、作品の横にその創造者と一緒に立つと、そこに並ぶ皿はまた違った意味をもって輝く。この作品は、女性の歴史の貯蔵庫であり、同時にシカゴの芸術家としての進化の過程を記録するアーカイブでもあったのだ。
もし≪ディナー・パーティー≫が2018年に初めて公開されていたら、どんなにその運命が違っていただろうと私は想像してみた。オープニングには、ソランジュやパティ・スミスやオプラ・ウィンフリー、そしてヒラリー・クリントンすら参加したかもしれない。インスタグラムには大量の投稿がなされ、#JudyChicago、#Vaginachina、#Herstoryといったハッシュタグとともに、皿を撮影した愛すべき画像や映像があふれていただろう。ファッション・ウィークの最中には、絶好の盛り上がりになったはずだ。さらに、この作品がもつ大衆への絶大なアピール力は、芸術家や思想家たちにもたちまち支持されただろうと推測するし、たとえどんな批評家でも、この作品を熟考せずに切って捨てるようなことは決してしなかっただろう。ただ、作品に登場する有色人種の女性がほんの少数であるという点は、ソーシャルメディア上で激論されただろうし、かわりに床にその名を刻まれるべきだった女性たちのリストについても議論が起きただろう。現代カルチャーの奥深くまで楔(くさび)を打ち込んだこの作品は、拒絶されることすら不可能だったはずだ。
≪ディナー・パーティー≫の危険を恐れぬ姿勢、その説得力、ユーモア(とりわけ、外陰部が描かれた皿は、もし女性たちが自分たちの身体構造に、男性と同じぐらいの誇りをもっていたとしたら、どんなことになるかを考える遊びだ)は、今の私たちには、わかりすぎるぐらい明確だ。シカゴは今の世代のフェミニズムのスタイルを予感していた。つまり、ボクシング選手のように、真摯で、率直で、申し訳なさなどいっさいない、堂々とした姿勢だ。彼女が、ごくドメスティックな手法を探究してきたことも、また預言的だった。スウーン、シンディ・シャーマン、そしてエマ・スルコウィッツといったまったく違ったタイプのアーティストたちはみな、彼女の実績があってこそいま活躍できている。シカゴのビジョンは美術界を超越してその先にも届いた。彼女は、アイデンティティというものが、いかに、より大きな構造変化の基盤になるのかを目撃してきた。社会から疎外され、怒り心頭に発した女性たちが、男性たちが自らの支配力を維持するために城壁のように強固に作り上げてきた社会構造を解体するのに、いかに力を合わせることができるのかをその目で見てきた。彼女は#MeTooムーブメントの核に、まったく同じ疑問が内包されているのを予感していた。それは、もし女性たちが権力をもったら、世界はどうなるのか? という問いだ。
だが、シカゴは、孤独な超能力者の立場でいることに疲れているようにも見える。もちろん彼女は、自分の60年近いキャリアが、ついにまるごと評価されることに異論はない。彼女の展示は、今後もブルックリン美術館、ニューヨークのサロン94、マイアミの現代美術館、ワシントンDCの国立女性美術館(National Museum of Women in the Arts)などで行われる予定だ。これまで長い間、彼女は美術家になじみのある手法や施設を使わずに作品を発表することを選んできた。それはほとんど認識されず、注目もされない荊いばらの道だ。彼女は常に遠い将来のことを見据えてきた。今、彼女は自分の後ろに続く世代のことを考えている。彼女がこの世を去ったあと、その作品はいったいどうなるのか?