アーティスト、ジュディ・シカゴの記念碑的な作品≪ディナー・パーティー≫が発表されて40年近くがすぎた今、カルチャーがやっと彼女に追いついてきた

BY SASHA WEISS, PORTRAIT BY COLLIER SCHORR, STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 ジュディ・シカゴは、1939年にシカゴ在住の進歩的なユダヤ系の一家に、ジュディ・コーエンという名で生を受けた。彼女の母は医療系の秘書として働き、かつてはダンサーだった。父は労働組合の幹部で、娘をかわいがり、彼女の精神的成長に重きを置いて教育した。家にはよく両親の友人たちが大勢集まり、書籍やマルキシズムについて議論し、シカゴもその議論に参加することを奨励された。素晴らしく真摯に綴られた、1975年出版の最初の自叙伝『Through the Flower: My Struggle as a Woman Artist』(邦題:『花もつ女─ウエストコーストに花開いたフェミニズム・アートの旗手、ジュディ・シカゴ自伝』)の中で記したように、彼女の父は、相手が誰であろうと対等に議論できるという自信を彼女に植えつけ、それはその後の彼女の人生の財産となった。子ども時代、彼女はシカゴ美術館で毎週土曜日を過ごし、模写と油絵のクラスが終わると、美術館内をひとりで歩き回って、ジョルジュ・スーラやクロード・モネ、トゥールーズ=ロートレックなどの作品を見て学んだ。シカゴが13歳のとき、父が急死する。彼女の人生で、最も大きな喪失だった。

 1957年、彼女はカリフォルニア大学ロサンゼルス校に学部生として入学し、その後、油絵と彫刻の修士号を取得した。ルームメイトの紹介で、最初の夫、ジェリー・ゲロウィッツと出会う。彼は反骨精神に満ちた自由な魂の持ち主だったが、自動車事故で死んでしまう。23歳にして未亡人になった彼女は、フェリュス・ギャラリーを中心に花開いたカルチャーシーンに参加する、数少ない女性のひとりとなった。このギャラリーは西海岸の最先端文化の拠点で、ここで活躍したアーティストたちの中にはエドワード・キーンホルツ、ロバート・アーウィン、エド・モーゼスやケン・プライスなどがいた。

画像: 1970年10月にジュディ・シカゴがアートフォーラム誌に掲載した広告。カリフォルニア州立大学フラトン校での個展を告知し(アートフォーラム誌は同年、ボクシングリングで撮影した写真も掲載した)、同時に最初の夫の名字であるゲロウィッツからシカゴに改名したことも告げている。彼女は男性主体のあらゆる名付けの制度から自由になりたかった JUDY CHICAGO EXHIBITION ANNOUNCEMENT, JACK GLENN GALLERY, ARTFORUM, OCTOBER 1970, PHOTO COURTESY OFTHROUGH THE FLOWER ARCHIVES

1970年10月にジュディ・シカゴがアートフォーラム誌に掲載した広告。カリフォルニア州立大学フラトン校での個展を告知し(アートフォーラム誌は同年、ボクシングリングで撮影した写真も掲載した)、同時に最初の夫の名字であるゲロウィッツからシカゴに改名したことも告げている。彼女は男性主体のあらゆる名付けの制度から自由になりたかった
JUDY CHICAGO EXHIBITION ANNOUNCEMENT, JACK GLENN GALLERY, ARTFORUM, OCTOBER 1970,
PHOTO COURTESY OFTHROUGH THE FLOWER ARCHIVES

 ラ・シエネガ大通りのこのギャラリーは、無頼なマッチョ至上主義の象徴だった(1959年に撮影された写真には、4人のフェリュス出身のアーティストたちが、バイクにもたれかかっている様子が写っている)。シカゴはバーで誰が酒にいちばん強いか競い合う、“ボーイズ”たちの仲間に加わろうとした。男たちは彼女をバカにし、車と麻薬の話に夢中になっていた。彼女はよく家に帰って泣いたが、我慢してやりすごせと自分に言い聞かせた。彼女は彼らと同じ世界で生きていきたかったのだ。

 男たちの仲間になるため、シカゴは自分なりのマッチョ・スタイルを追求していった。髪を切り、ぶかぶかのブーツを履き、葉巻を吸った。彼女は大学院の教授たちがバカにしていた女性的なイメージのあるビオモーフィズム(自然界の形を思わせる有機的なデザイン)から離れて、より抽象的で技術的に難しい作品を作ろうとした。自動車修理の学校に通い、スプレー塗装の技術を学んで、車のボンネットをキャンバスに見立ててパステルカラーの4枚一連の作品を作った。また、高速道路の支柱をモデルにして、ファイバーグラス製の巨大な彫刻を手がけた。さらに「アトモスフィアズ(Atmospheres)」と題して、砂漠や山の中や海岸で、色つきの煙を焚き、環境彫刻のパフォーマンスを行なったりもした。

画像: ≪スモーク・ボディズ(Smoke Bodies)≫(1972年)。 火薬技術と身体を使った作品。砂漠の風景に色彩とやわらかさを表現した JUDY CHICAGO, “SMOKE BODIES“ FROM “WOMEN AND SMOKE,’’ 1972, ©JUDY CHICAGO, PHOTO COURTESY OF THROUGH THE FLOWER ARCHIVES

≪スモーク・ボディズ(Smoke Bodies)≫(1972年)。
火薬技術と身体を使った作品。砂漠の風景に色彩とやわらかさを表現した
JUDY CHICAGO, “SMOKE BODIES“ FROM “WOMEN AND SMOKE,’’ 1972,
©JUDY CHICAGO, PHOTO COURTESY OF THROUGH THE FLOWER ARCHIVES 

 ある日、フェリュスのオーナーだったウォルター・ホップスが、シカゴと2番目の夫、ロイド・ハムロールらが共有していたパサディナのスタジオを訪れた。そこには1965年に彼女が作った≪虹のピケット(Rainbow Pickett)≫という名の彫刻があった。一連の色鮮やかな木製の梁が並んでおり、ひとつ色を経るごとにサイズが大きくなり、壁に立てかけられた形の作品だ。ホップスはその作品を見るよりむしろ、それに背を向けてハムロールやほかの男性アーティストたちと雑談した(1966年に、この作品はユダヤ博物館で開催された主要なミニマリストの展覧会『プライマリー・ストラクチャーズ(Primary Structures)』に展示された)。それから何年もたって、彼女がホップスとばったり会ったとき、彼はその作品が、仲間の男性たちの作品より優れていたことに衝撃を受け、どう反応すればいいかわからなかったのだと説明した。彼女は自信と望みを失い、次第に怒りをためていった。批評家たちから無視されることが嫌だった。野心をもつ女は、悪女かレズビアンだと常に判断され、女性は芸術家になれないと繰り返して言われることにうんざりしていた。

 

フェミニズムアートの闘士にして時代の預言者、ジュディ・シカゴ<後編>

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.