監督がすべての栄誉を独占しているように見える映画の世界。だが、誰もが映像に夢中で、映像を熟知しているこの時代に、視覚によって観客とコミュニケートする手法を操るのはプロダクション・デザイナーたちだ

BY BORIS KACHKA, PORTRAITS BY CLARISSA BONET, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

画像: ジュディ・ベッカー 『ジ・アサシネーション・オブ・ジャンニ・ヴェルサーチ:アメリカン・クライム・ストーリー(原題)』のセットにて。この作品は彼女にとってライアン・マーフィ監督との共作2作目となる

ジュディ・ベッカー
『ジ・アサシネーション・オブ・ジャンニ・ヴェルサーチ:アメリカン・クライム・ストーリー(原題)』のセットにて。この作品は彼女にとってライアン・マーフィ監督との共作2作目となる

 SMプレイに使う最高級品質の鞭(むち)は? 牛は一日にどれぐらいの距離を歩くことができる? 空中に浮かぶ山をそれっぽく見せるにはどうしたらいい? そもそも空に浮かぶ山なんてものは存在しないという前提は置いておいて。くどすぎるピンクってどんなピンク?

 もしあなたが映画を観ているときに、こんな質問が頭に浮かんでこなかったとしたら、それは、プロダクション・デザイナーがすでにそれらの質問を想定したうえで、きっちり仕事をしたという証拠だ。キングコングが初めてハリボテの飛行機を叩きつぶして以来、映画製作に使う道具は大きく変化してきた。観客が自分のポケットの中に独自の編集ソフトウェアを持っているこの時代、観客の映画への期待も激変した。だが、デザイナーの仕事の最も重要な部分は同じだ。たまらないほど魅力的で、かつまったく目立つことなく、想像をはるかに超えていながら、ぱっと見ただけで誰にでもわかる世界を作り出すことだ。

 卓越したプロダクション・デザインは、表面だけうまくできていればいいというものではない。優れた演技が、単にセリフを暗記していることとはまったく違うのと同様だ。脚本家や監督の意図をはっきりとした世界観で表現し、そこに直感的かつ深い意味を具現化できてこそ、最も優れた俳優たちですら伝えられないストーリーを観客に伝えることができるのだ。

『ジュラシック・パーク』('93年~)に出てきた、奇妙なまでにリアルなテーマパークのデザインを思い出してほしい。化石化した円柱や茅葺き屋根は、それを作った人間がどんな人物かを伝えているだけでなく、自然を再現しようとする人類の執拗なこだわりを表している。それはスティーヴン・スピルバーグ監督自身のシンボリズムではない。スピルバーグとともに、ちょうど10本の映画を作り上げてきた、プロダクション・デザイナーのリック・カーターのアイデアだ。「リックは僕が伝えようとしている物語の隠された意味を、僕がより深く理解できるように助けてくれるんだ」とスピルバーグは言う。「僕が彼に『とにかく格好よく仕上げてくれよ』と言うと、彼は僕に『なぜここまで格好よい仕上がりになったのか、われわれふたり以外誰にもわからなかったらどうするんだ?』と言うんだ」

『それでも夜は明ける』('13年)のスティーヴ・マックィーン監督は、共同製作者であるアダム・ストックハウゼンのことを「物語によって伝える映画作家」と称するほどだ。「彼は脚本を見て言うんだ。『あれはどういう意味? あの時間と空間の中で、彼や彼女はどこにいるの? 観客にどう感じてほしい?』ってね」

 プロジェクトごとにチームが組まれ、人間関係が流動的な業界にあって、緊張感をともなった相互依存関係になりやすい監督とデザイナーの仲。そんな彼らの関係を見れば、なぜ多くの場合、実際の結婚生活より長続きし、ときには結婚生活をなぞってさえいるのか、その理由がわかる。「監督が求めるものがわかるから」と言うのは、夫であるバズ・ラーマン監督の5本の大作すべてのプロダクション・デザインをこなしてきたキャサリン・マーティンだ。「愛情を込めて『それは違うと思うけど』と言うことができるしね」。巨匠とともに働くデザイナーは、監督の耳を持ち、ときには彼の目となり、手となる。すべての栄誉を手にするのは監督だとしても、デザイナーの存在なしでは、彼らは目をつぶったまま空を飛んでいるようなものだ。

 誰もが映像に執着し、そしてもっと重要なことに、誰もが映像を知り尽くしている文化にあっては、プロダクション・デザイナーはかつてないほど、映画の魂に近い存在になってきたのかもしれない。今日のデザイナーは、すでにあらかじめデザインされた世界に生きている観客たちの、一歩先を行く必要がある。スクリーン上でも実生活でも、観客たちがある場所を思い起こすとき、頼りにするビジュアルは映画のシーンであることが多い(私たちはマンハッタンの街を見ては映画『マンハッタン』('79年)を思い浮かべ、ウィーンを見れば『恋人までの距離(ディスタンス)』('95年)を思い出す)。今の時代を生きるということは、常にビジュアル的なデジャブ状態にあるということだ。それならば、私たちは映画に何を求めているのだろうか?

 それはキュレーションではなく創造だ。つまりデジャブ体験をはるかに超える映像の発明なのだ。俳優たちは、やってきては去っていく(そしてある日、俳優たちの存在はすべて消え去るかもしれない)。脚本とプロットは必要なものだが、それだけでは成立しない。だが、プロダクション・デザイナーたちは映画製作の中枢を担う。彼らは古代や現代の道具を、ときにはっきりとこれ見よがしに、ときにこっそりと隠し味として使って、観客の目を新しいものに向けさせる。彼らは私たちの想像力をかきたて、それによって、私たちがいかにものを見るかの鍵を握っているのだ。

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