BY AYANO HAYASHI, MIKA KITAMURA(P2~P3), PHOTOGRAPHS BY TETSUYA MIURA(P2~P3)
口もとから白い歯をのぞかせうれしそうな表情を浮かべる女性。前かがみになって、集中している様子だけれど何をしているのだろうか。画面の左上には「名酒揃 志ら玉」と、この絵のタイトルらしき文字が記されている。字こそ異なるが、彼女がすくっているのは私たちのよく知る「白玉」なのだろうか。それにしては赤いまだら模様が混ざっているのが気にかかる。
この絵をよく見ると、四隅が丸くトリミングされていることに気がつく。団扇(うちわ)にするために描かれ、見本として保存されたものだろう。江戸時代、団扇は今以上に生活に欠かせないものだった。あおいで涼むのはもちろん、炭に風をあてながら火加減を調整するにも団扇が不可欠だった。江戸の町には団扇売りなる行商が練り歩き、人々は思い思いの団扇を求めては愛用した。この団扇絵には「名酒揃」とあるのでシリーズものということになる。実際「剣菱」「宮戸川」といった酒名を記した同じ規格の団扇絵が残されており、いずれも描いたのは当時の人気絵師、歌川国芳(くによし)。躍動感あふれる描写を得意とした彼は語呂合わせや洒落(しゃれ)を好んだことでも知られ、酒名「志ら玉」と「白玉」をかけてこの絵を仕上げたというわけだ。
では、江戸の白玉事情を少しひもといてみたい。当時の百科事典ともいえる文献『守貞謾稿(もりさだまんこう)』(天保8<1837>年~)に詳しい記述が残っている。それによると白玉は、「寒晒粉(白玉粉)を水とともに練り、丸めて茹でる」とあり、作り方は今とほとんど変わらない。そして「路上で売られるものは、もっぱら冷水と供され、夏に売られる」(原文より筆者抄訳)と続く。今、私たちは白玉に対し、季節感を意識することはあまりないが、江戸においては夏の食べ物だったようだ。
それには理由があった。秋に収穫したもち米をよいコンディションで保管できるのは冬の間まで。けれども真冬、冷たい水と一緒に臼(うす)で挽き、目の粗い寒晒粉にすることで虫がつきにくくなり、夏まで保存することが可能となる。つまり江戸の人たちにとって白玉は、夏に食べることができるありがたい餅というわけだ。それを深い井戸から汲んだ冷たい水とともにいただく。ひんやりとした白玉をつるっと食べれば、暑さで火照(ほて)った体もすっかりクールダウン。白玉はこれ以上ない贅沢な夏のおやつだったのだ。そうやって見ると彼女がうれしそうなのもうなずける。水を張った大鉢にたゆたう白玉。暑いさなか、ちょっとはだけた青い絞りの着物にほつれ髪。夏の風情が画面いっぱいに漂う。お待ちかねの白玉をさあいただこう、わくわくと高揚するこの女性の気持ちが伝わってくるようだ。『守貞謾稿』には最後にこうある。「昔は全白をもっぱらとするが、今は紅を交えて斑玉なすものあり」(筆者抄訳)。江戸の人たちは目でも楽しもうと白玉に工夫を凝らしたのだろう。
こんなふうに当時の食事情をひもときながら浮世絵を見つめれば、描かれた人物たちの表情や仕草がよりいきいきと見えてくる。江戸時代、搾油の技術が発達して生まれた天ぷら。油の味わいは人々を魅了した。鱚(きす)の天ぷらを前に目を細める女性は、油の香ばしさに幸福感いっぱいといった様子だ。また、酢の普及により江戸では握りずしが急速に発達し、屋台から高級店まで誰もがすしに熱狂した。小さな子どもが、すし食べたさに駄々をこねるのも、微笑ましい日常の風景だったに違いない。
今に通じる江戸の味わい。その起源を探りながら浮世絵を見つめてみる。ふと絵から目を離した瞬間、女性が大きく口を開き、ぱくっと白玉を食べる、そんな様子が目に浮かんでくる。食いしん坊心を携え、感情移入たっぷりに浮世絵と向き合えば、江戸の息吹をもっとリアルに、もっとビビッドに感じることができるはず。