TEXT AND PHOTOGRAPHS BY YUKO IIDA
晴天のもと、長崎の紺碧の空に吹く風は、いつか旅したヨーロッパの港町を思わせた。大浦天主堂の鐘が信徒発見150年という節目のミサの始まりを告げる中、司祭が白いローブを着て長い階段を登ってゆく。教会の中には朝の清々しい光が満ち、ステンドグラスの彩りをいっそう際立たせていた。
彩光に照らされた祭壇内陣の壁に飾られた一枚の絵画に、私の眼は釘づけになった。重厚な色調のその絵には、十字架に磔(はりつけ)にされた人々の姿が描かれていた。ある者は天に視線を向け、ある者はすでに絶命している壮絶で残酷なシーン。であるにも関わらず、どこか優美さすら感じるのは、磔にされた人々の篤い信仰ゆえだろうか。
パイプオルガンの音、司祭のお話、そして賛美歌。ミサが終わる頃、虹彩は絵の中から消えた。まるで天が演出を加えたようなひとときだった。絵の題は『日本二十六聖人西坂磔処刑の図』。じつは大浦天主堂は、この26聖人に捧げられた教会だ。教会入り口に立つ憂いを含んだ聖母マリアの祈りの手も、殉教の地、西坂に向けられているという。
1587年、豊臣秀吉はキリシタン禁教令を発布した。それに伴い信徒への棄教の強要、海外の神父の追放が行われることとなった。フランシスコ・ザビエルの日本来訪から38年の歳月が流れていた。京都で24名が拿捕(だほ)され、長崎まで徒歩で道中見せしめの旅路をとった。途中2名が加わり、計26名が西坂の丘で十字架に磔にされ絶命した。一行の中にはわずか12歳という少年もいた。集まった群衆に向かい、最後まで自分の信じる神の話を説いていたという。日本初の殉教者となった26聖人の逸話は西欧でも広く話題となった。今、西坂には「日本二十六聖人記念館」があり、美しい建造物の中に詳しい展示がされている。
今年、2018年7月には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に正式登録された。大浦天主堂もその12の構成資産のひとつに含まれている。最近では遠藤周作の名著『沈黙』がマーチン・スコセッシュ監督により映画化され、話題を呼んだ。信徒たちが聖書も神父も不在のまま400年の長きにわたり潜伏し、時に命を落とすことさえいとわず信仰への忠誠を貫いたという事実は世界にも例を見ない。
「信徒発見」とは、水面下で続けられた信仰が1865年3月17日、ついに日の目を見た歴史的瞬間でもあった。当時、開国とともに長崎に来訪し在住した外国人のために建造されたのが、大浦天主堂だった。その教会へ、浦上地区の潜伏キリシタン10数名が見学という名目で訪れる。その中の1人の女性が幼子のキリストを抱いたマリア像の御前にひざまずき、プチジャン神父に言った――「私の胸、あなたと同じ」。その言葉を受けた神父はすぐにバチカンへ伝え、奇跡のような話に世界が沸いた。
2015年、信徒発見の150周年の節目に、私は幸運にも列席の許可を得て大浦天主堂の撮影をした。幾世代にもわたり信じ抜く気概に感動を覚えながらも、その動機とは一体どういうものだったのだろう、と思いを馳せた。大浦天主堂には今も、信徒発見のときの聖母子像が飾られている。無垢な表情で両手を広げる幼子のキリストの姿は、何ぴとをも拒まない愛と許しを示している。キリストが生まれた日、すなわちクリスマス・シーズンには長崎の教会はイルミネーションに彩られ、教会でミニ・コンサートなどの特別イベントも開催されている。外来の参加者も信徒さんと触れ合うことができる、和やかな場だ。
長崎港からジェットフォイルに乗り、冬の海を上五島へ渡った。「上五島」とは五島列島の主要5島のひとつ、中通島(なかどおりじま)や若松島など五島列島の北部一帯を指す。前線の影響だろうか、低く垂れ込めた雲のあいだから、まるでカーテンのドレープのように光の筋が海面を照らす。神々しい景色を横目にしつつ、うたた寝をしてしまい、気がつくと鯛ノ浦港に着いていた。
オレンジ色の西日が長い影を作り、小さな港の風情を引き立てていた。島の人たちに混ざって下船し、レンタカーで曲がりくねった島の道をゆく。上五島には29もの教会が点在し、その中で世界遺産認定を受けたのが、「頭ヶ島(かしらがしま)の集落」にある頭ヶ島天主堂である。頭ヶ島天主堂は全国でも珍しい石造りで、その石は対岸の島から船で運ばれ、信徒自らが建設労働に参加して教会を建設した。ここに暮らすのは、切支丹禁教の弾圧から逃れるため、長崎の沿岸部から暗闇に小舟を出して逃れ、急峻な斜面に細々と畑を耕し信仰とともに暮らしてきた人々の末裔だ。今も「隠れキリシタン」の当時のまま信仰を変えず、クリスマスにはブリ大根で祝う集落もある。
国の重要文化財のひとつ、煉瓦造りの青砂ヶ浦(あおさがうら)天主堂は海を少し見下ろす高台にある。教会のドアは基本、いつでも誰にでも開かれている。脇の入り口で靴を脱ぎ、敬意を胸に堂内へ足を踏み入れた。沈みつつある太陽の光がステンドグラスを透過し、白壁をスクリーン代わりに色と柄を映し出している。教会内のあちこちに投影された影は夢の中のような美しさだ。丸い柱には彫刻が施され、アーチ状のリブ・ヴォールト天井に向かって伸びている。
長崎の教会建築を語る上で、核になる需要な人物が鉄川與助だ。與助自身は上五島出身で仏教徒だったが、日本布教に人生を捧げたフランス人のマルク・マリー・ド・ロ神父を師として仰ぎ、見たこともない教会を作る技を一心に磨き続けたという。信徒は長いあいだの弾圧により、教会を作ることすらもちろん許されなかったが、懸命に漁や仕事に励み、建設資金を蓄えた。やがて1873年(明治6年)に禁教令が廃止。長崎各地から依頼を受けて教会建築に携わった与助は、生涯で34棟もの教会を建造した。同じく中通島にある冷水(ひやみず)教会は與助の処女作となった教会で、今なお修復を繰り返し、信徒たちに大切に使われている。
中通島は、その形も十字架を彷彿とさせるから不思議だ。「静けき真夜中、星はひかり、救いの御子は、み母の胸に眠りたもう」――。静謐なクリスマスの夜、蝋燭の灯火がわらに包まれた幼子の像を照らす。ベールを被った女性、子どもたち、日焼けした漁師さんらが集い、慎ましやかなイブのミサが始まった。信仰の灯火は受け継がれてゆく。ミサの最後には神父様から聖体拝受がある。クリスチャンでない私も頭を垂れ、神父の掌の暖かさを頭上に感じつつ「祝福」を授かった。
飯田裕子
写真家。1960年東京に生まれ、日本大学芸術学部写真学科に在学中より三木淳氏に師事。沖縄や南太平洋の島々、中国未開放地区の少数民族など、国内外の“ローカル”な土地の風景や人物、文化を多く被写体とし、旅とドキュメンタリーをテーマに雑誌、PR誌で撮影・執筆に携わる。現在は千葉県南房総をベースに各地を旅する日々。公式サイト
長崎の教会と聖地を、歴史を織り交ぜながらグラフィックに紹介する『長崎の教会』(吉田さらさ著)では撮影を担当している