もともとあった大小の湖をひとつにつなげ、周りの地形もデザイン。結果、湖の上を橋のように横切ることになった建物を、無数のガラスパネルが包む二重構造。大地と建物だけの世界が、建築というものが何もないところに人の手で造られる、人間の創造物であることを教えてくれる。 PHOTOGRAPH BY TAKUJI SHIMMURA
空と建物を分かつ355mの直線美。闇夜のエントランス。陽が遠い地平の向こうに沈み始めると、左右非対称にデザインされた大庇が灯籠のように浮かび上がり、街からの来場者を迎える。 PHOTOGRAPH BY TAKUJI SHIMMURA

 2006年、26歳の田根剛はロンドンのデイヴィット・アジャイの建築事務所で働いていた。そんなある日、ジャン・ヌーベルのもとに勤務するイタリア出身のダン・ドレル、レバノン出身のリナ・ゴットメと初めて挑戦した国際コンペが、当時規模も内容も最大級だった「エストニア・ナショナル・ミュージアム」だった。結果はいきなりの優勝。独立を機にパリに移り住み、それぞれの頭文字を取ったDGT.(Dorell.Ghotmeh.Tane / Architects)を率いて10年―。この秋開館したその処女作を訪ねるエストニアへの旅は、午前のうちに東京を飛び立ってヘルシンキ空港を経由。バルト海の対岸、中世の旧市街が残る世界遺産の街の玄関口としてツーリストを受け入れるタリン空港へ。そこからさらに南に約180㎞、夕方の高速バスを待ってミュージアムのあるタルトゥを目指す。


 翌朝、先に現地入りしていた田根と合流し、車でミュージアムに。辺りの風景は「素朴なところですよ」と聞いていたひと言がしっくりくる。小さな遊覧船が行きかうのどかな川を越え、緩やかな丘を上り家々もまばらになり、増していく森に目を奪われていたのも束の間。新たに舗装されたミュージアム・ロードに折れるとにわかに視界が開け、大地にそびえるエントランスの巨大な庇(ひさし)が姿を現した。

「にわかに」としたのは土地の拓かれ方が唐突だからで、それもそのはず、そこは第二次世界大戦後、旧ソ連の占領時代に造られた空軍基地だった。1991年に崩壊直前の旧ソ連から独立、エストニア初の国家プロジェクトとしてナショナリティを取り戻すためのミュージアム計画が始動。2004年のEU加盟をきっかけにコンペが開かれ、放置されていた一帯がコンペの候補地とされたが、田根たちはその航空写真の傍らに荒野を切り裂くコンクリートの塊を見つけた。軍用滑走路だ。そして候補地からはみ出した場所にもかかわらず、田根は滑走路の延長線上から這(は)い上がる一本の線を描いた。今、その直線は355mもの屋根となって、空と大地を分断する。

田根 剛●1979年東京都生まれ。建築家。2006年、パリにてダン・ドレル、リナ・ゴットメとDGT.を設立。現在 、フランス、スイス、レバノン、日本で20以上のプロジェクトが進行中。建築以外に会場構成、舞台空間も数多く 手がける。フランス文化庁新進建築家賞(2008)、ミラノ・デザイン・アワード/2部門(2014)、AFEXGRAND PRIX 2016など受賞多数。 PORTRAIT BY SATOKO IMAZU

「まっすぐな滑走路を見ていて浮かんだ、滑走路を見つけなければ生まれなかったアイデアです。それ以前は建築をそこまでシンプルに発想できなかった。実際にできあがった建物も、力強いのに力みがない。一本の境界線で左右の景色が暴力的なまでに一変する、人間が作り出した幾き何かの世界は美しいんです」

 設計のためのリサーチでは考古学にも近いアプローチで、徹底して場所の歴史や土地の痕跡を掘り起こす。現在の田根の建築手法のベースにあるそうした姿勢も、きっかけになったのはエストニアだった。