私たちは、なぜ、だしの香りにほっとするのか――。ミシュランの星を持つ京都の料理屋の主人であり、和食を科学的に解析する研究を続けている高橋拓児の取り組みから、佐々涼子が考察する

BY RYOKO SASA, PHOTOGRAPHS BY TERUO UKITA

「香り」というのは、とらえどころがなく、うまく説明できないものも多い。それもそのはず、味覚は、甘い苦いなどの五味、視覚は赤、黄、青の3種類のグラデーションで認知している。しかし、嗅覚の受容体(レセプター)は400種類、一般の人間は約1000種類もの匂いを嗅ぎ分けることができ、ほかの感覚と比べて種類が突出しているのだ。高橋さんのようなプロの料理人にいたっては、約一万種類の匂いを嗅ぎ分けられる可能性があるという。

 香りの素となる化合物は、ガスクロマトグラフィーという機器で検出される。だが、いくら香りの成分を機械的にとらえることができても、その香りが、どうおいしさに結びつくかを突き止めるまでには、人間の関与が必要だ。なぜなら、そこに個人の培ってきた「感性」が必要だからだ。

「香りというのは、人によって感じたり、感じなかったりと、かなり個人差があるんです。さらに、香りがどう快不快に影響しているかを判定するのは、まだまだ、人間の鼻に頼っているのが現状です。しかも香りの研究者がおいしいものを知っているかというと、必ずしもそうとは限らない。何がおいしいかという確かな基準が培われていないので、余計なノイズを拾ってしまうんです」
「おいしい」を醸し出す香りを、判別する能力。これは、大人になってしまったわれわれでも、後天的に身につけることができるのだろうか。
「この能力を磨く手立ては経験しかありません。絶対的な経験の量です。もし料理人として香りのエキスパートになるなら、本気でやって15年、20年。それでもまだまだでしょう。自分で料理をしない人には、おいしい、おいしくない、の研究は難しい。なぜそうなるのかという理屈がわからないからです」。つまり、香りを研究するには、高橋さんのようなプロの参加が必要なのだ。

 ところで香りの刺激は、脳に伝えられると、不思議な働きをする。だしの香りに包まれると、節句や祝い事のある日の華やかな空気や、家族の団欒を思い出すことはないだろうか。だしの香りに、幼い頃の懐かしい記憶がよみがえってくるのは、香りの体験が長期記憶をつかさどる海馬に蓄積されるからだ。
 また、匂いの刺激は、扁桃体に伝わって情動を刺激し、ダイレクトに快不快を引き起こす。つまり、最も人間らしいエモーショナルな部分に働きかけているのである。

 いずれ、香りの分析が進むと、AI(人工知能)の調合した香りによってわれわれの情動をコントロールされる日がやってくるのだろうか。少し複雑な気分になる。しかし、高橋さんに、香りを嗅ぎ分ける技術について尋ねてみると、これをAIが取って代わるのは、少し先になりそうだという気がする。高橋さんは、「ソムリエがするように、言葉と香りを紐づけるといいですよ、きっと香りに対する感性が磨かれてきます」と言う。
「たとえば私が、昆布に含まれる香りの成分を嗅ぎ分けて、表現した単語はこうです」と、教えてくれた言葉は、どこか懐かしく文学的である。
“エタノール、汗のむれたにおい。抹茶、ほうじ茶、カラメル。イカ、金属臭、濡れた雑巾のにおい、ナッツ、キャンディ、しょうが、強い金属臭、しょうゆ、焼き餠、グローブ、タルトタタン。妖艶な香り、金木犀、コリアンダー……

 脳の中で嗅覚がどのような働きをしているかは、まだわからない部分が多い。しかし、高橋さんによると、香りは名前をつけることで発見され、記憶として蓄積される。香りを楽しむことは、脳の奥にしまい込まれた記憶をたどる旅でもあるのだ。また、それはだしそのものの記憶をたどる旅でもある。たとえば海で育まれた鰹は、焙乾(ばいかん)により薪の香りをまとい、カビによって熟成された芳香を放つ。完成までのこの時間の経過によって蓄えられた森羅万象の記憶が、香りによってひもとかれるのである。

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